実験動物医学
3.犬および猫の臨床麻酔
西村 亮平(東大・大学院農学生命科学研究科)
近年、新しい麻酔薬や麻酔法が開発され、さらにはさまざまな麻酔モニター機器が
導入されたことにより、獣医学領域とくに犬や猫の臨床例に対する麻酔は、大きく変
化した。これらによってより重篤な病態の動物あるいはより高齢な動物に対して、よ
り安全な麻酔を実施することが可能となってきた。さらにこれらの変化は、手術やさ
まざまな処置中の麻酔だけに留まらず、術前の不安感の軽減、術後の疼痛の管理など
周術期の麻酔管理の充実という概念でさらに進歩している。
一方実験動物としての犬や猫に対する麻酔は、さまざまな制約から、また過去のデ
ータとの整合性を考えて注射麻酔を主体とした簡便な麻酔からあまり変化していない
ものと考えられる。しかし、より精密で高度な動物実験が要求されるようになり、ま
た動物愛護に関する意識がますます高まってきていることから、実験動物においても
、より安定し、より安全な麻酔が求められ、さらに術後の疼痛管理などもますます厳
しく要求されてくるだろう。
ここでは、現在犬や猫の臨床例に対して、どのような麻酔が行われ、さらにどのよ
うな周術期麻酔管理が行われるようになってきているか、麻酔前から後までその手順
に従って述べることとしたい。
1. 動物の術前評価と麻酔導入前の準備と処置
1) 動物の評価:麻酔をかける前に動物の評価を十分行い、必要があり、時間的
な余裕があれば、できる限りの術前補正を行う。動物の身体状態の評価は、以下に示
すアメリカ麻酔学会の分類に従って、 class1からclass5に分けられることが多い。
class1−(excellent)器質的疾患や全身的障害がなく全く健康な動物、
class2−(good) 軽微ないし中等度の全身性障害のある動物、
class3−(fair)中等度ないし重度の全身 的障害のある動物、
class4−(poor)死に至るほど重篤な全身性疾患のある動物、
class5−(critical)瀕死状態の動物
2) 麻酔方法のプランニング:以上の評価によってそれぞれの動物に適した麻酔
方法のプランニングを行う。これには、術前に前投与薬としてどのような鎮静薬を使
うか、鎮痛薬あるいは抗コリン薬などは使うかに始まり、麻酔の導入方法はどのよう
なものを用いるか、維持麻酔は何を使うか、麻酔中のモニターは何を使用するか、循
環補助薬などの準備は必要か、術後の鎮痛はどのように行うかなどが含まれる。
3) 麻酔前投与薬の投与:麻酔前投与薬を投与する目的は、(1)動物の保定(
化学保定)、(2)ストレスの軽減(不安を取り除く)、(3)麻酔の導入を円滑、
安全にする、(4)術前・術後の鎮痛、(5)筋弛緩、(6)麻酔薬などの使用量お
よびこれらの好ましくない作用の低減、(7)術後の興奮、疼痛抑制 、(8)自律
神経(交感神経、副交感神経)反射抑制などである。このために、トランキライザー
、鎮静薬、鎮痛薬、麻薬、抗コリン薬などを用いる。現在トランキライザーあるいは
鎮静薬としては、アセチルプロマジン、クロールプロマジンなどのフェノチアジン、
ジアゼパム、ミダゾラムなどのベンゾジアゼピンおよびキシラジン、メデトミジンな
どのα2受容体作動性の鎮静薬がよく用いられている。これらの薬剤の特徴を簡単に
表現すると、鎮静作用の強さはα2受容体作動性>フェノチアジン>ベンゾジアゼピ
ンの順になり、副作用の少なさは、ベンゾジアゼピン>フェノチアジン>α2受容体
作動性の順となる。この中で、ベンゾジアゼピンは、犬や猫ではその弱い鎮静作用の
ため、単独で用いられることはまれである。
現在我々の施設では、いくつかの薬剤を組み合わせて使用しており、動物の性格、
状態、年齢などを考慮して、メデトミジンーミダゾラム、アセプロマジンーブトルフ
ァノール(鎮痛薬)あるいはミダゾラムーブトルファノールの組み合わせを使い分け
ている。これらの組み合わせの中でメデトミジンーミダゾラムは、非常に強い鎮静作
用が得られ、ある程度の鎮痛作用も持ち、さらにメデトミジンの拮抗薬であるアチパ
メゾールで迅速に覚醒できることから、強い痛みを伴わないさまざまな処置に利用可
能である。ただし、メデトミジンは、徐脈、心拍出量低下、血圧上昇などの比較的強
い循環変動をもたらすことに注意が必要である。一方アトロピンなどの抗コリン薬(
副交感神経遮断薬)は、(1)唾液、気道分泌液の抑制、(2)迷走神経刺激(喉頭
刺激、眼球圧迫、内臓牽引など)による徐脈、心停止の抑制を目的に投与されるが、
頻脈や不整脈が発生しやすいため心疾患動物では注意が必要である。
2. 麻酔の導入と維持
1) 酸素吸入:麻酔導入前に100%酸素をマスクで吸入させ、十分な酸素化をはか
る。これにより導入時の呼吸循環抑制による影響を最小限にとどめることができる。
ただし犬がマスク装着をいやがって興奮する場合には無理をしない。
2) 麻酔導入:導入麻酔の最大の目的はスムーズな気管内挿管である。麻酔導入
は、注射麻酔を用いる方法と吸入麻酔を用いる方法に大別できる。注射麻酔薬として
一般的に用いられているものは、チオペンタール、チアミラールを代表とするバルビ
ツレイトと解離性麻酔薬のケタミンである。バルビツレイトは呼吸抑制が比較的強い
ので(特に急速に大量投与すると呼吸停止しやすい)、呼吸数、呼吸様式に注意して
挿管可能となるまで投与する。またこれらの薬剤は、投与直後頻脈と、心室性の不整
脈が出現するので、適切な前投与薬により、これらを出来るだけ抑えることが望まれ
る。ケタミンは、静脈内投与も筋肉内投与も可能で、効果の発現が早いので種々の動
物で幅広く用いられている。しかし本剤は、筋弛緩作用がなく、覚醒も円滑でないの
で、とくに犬では必ず筋弛緩作用を持つ鎮静薬と組み合わせて使う必要がある。注射
麻酔薬は、導入薬としてだけでなく、そのまま維持麻酔として用いることができる。
短時間作用性のバルビツレイトであるペントバルビタールは、長い間臨床麻酔にも使
われてきた。しかし、安全性の面からまた覚醒の面から現在は、その使用はかなり限
られてきている。一方ケタミンは、とくに短時間の麻酔にさまざまな鎮静薬と組み合
わせて頻繁に用いられている。しかしケタミンは、体性痛に対する鎮痛作用は強いが
、内臓痛に対してはあまり効果がない点に注意が必要である。また頭蓋内圧を上昇さ
せるので、頭蓋内占拠性病変、頭部外傷を持つ動物での使用は禁忌である。さらに猫
では、大部分が腎臓から排出されるため、腎機能低下例では十分な注意が必要である
。その他、近年注目されている新しい注射麻酔薬のプロポフォールが、日本でも発売
になったが、現在のところ動物用に入手することは困難である。麻酔の導入は、吸入
麻酔薬を用いて行うことも出来る。この場合、動物の口にマスクを当て、低い濃度か
ら徐々に麻酔薬濃度を上げて、麻酔をかける緩徐導入法と、最初から最高濃度の麻酔
薬を吸入させる急速導入法がある。また猫では、透明な密閉できる箱に動物を入れ、
吸入麻酔薬を充満させて導入することが出来る。いずれにしてもこれらの方法は、麻
酔をかける人が麻酔薬を吸入してしまうという欠点がある。
3) 気管内挿管:全身麻酔中は、舌根部の沈下が起きるため、注射麻酔であって
も気道を確実に確保し、安全な麻酔を行うためには気管内挿管することが望ましい。
ただし気管内挿管は、生体にとって大きな侵襲となるため、適切な麻酔深度である必
要がある。喉頭部を局所麻酔薬で麻酔することにより、よりスムーズな挿管が可能と
なることが多い。
猫における気管内挿管は、犬に比べ難しい場合が多いが、これらの点に注意すれば、
十分可能である。
4) 麻酔の維持:麻酔の維持には、とくに大きな手術、長い麻酔時間が必要な場
合には吸入麻酔が使われることが多い。吸入麻酔には、麻酔器と気化器、酸素ボンベ
などが必要となるが、麻酔の調節性にすぐれ、覚醒も早いという特質を持つ。現在一
般的に用いられている吸入麻酔薬は、ハロタン、イソフルラン、セボフルランである
が、導入、覚醒が早く、体内での分解率が低いイソフルラン、セボフルランがより好
んで用いられるようになってきている。麻酔が安定してくれば、どのような麻酔薬を
用いても、大部分の場合吸入麻酔薬の強さの指標である最小肺胞内濃度(MAC)の1.
3〜1.5倍の濃度で麻酔を維持することが可能である。同じ吸入麻酔薬である、亜酸
化窒素は、麻酔効果は小さいものの、副作用が少ないため、人を中心に幅広く用いら
れている。しかし低酸素事故の最大の原因になること、動物での麻酔効果がかなり小
さいこと、新しい吸入麻酔薬が登場したことなどから犬や猫での使用はかなり限られ
るようになってきている。
5) 麻酔モニター:麻酔中の動物の各種生理機能の監視と制御を行うために実施
するもので、ヒトの五感にたよるものと、モニター機器を用いておこなうものがある
。しかし人間の五感だけでは、認識できない変化もあるし、また感度が低すぎて、気
がついたときには、深刻な状態になっていることもある。逆にモニター機器を装着し
さえすれば、麻酔中の問題を確実に減少できるわけでもない。これは機械自体および
監視する人間の両者の問題に起因する。理想的なモニター機器の条件としては、(1
)測定するパラメーターの生理学的意義や評価基準が十分確立している、(2)生体
に無侵襲である、(3)連続的測定が可能である、(4)リアルタイムに情報が得ら
れる、などが挙げられる。例えば、動脈血酸素飽和度が測定できるパルスオキシメー
ターや、呼気終末二酸化炭素濃度が測定できるカプノメーターなどはこれらの条件を
かなり満たしている。これに対して、例えば血液ガスの測定は、精度は非常に高いも
のの、生体に侵襲的で、連続測定が困難であり、リアルタイムの情報も得にくい。逆
に脳波測定は、後者の条件は満たしているものの、麻酔中に得られたデータの生理学
的意義や評価基準がほとんど確立していない。
現在動物でも臨床的にモニター可能な項目としては、呼吸器関係では、前述の呼気終
末二酸化炭素濃度、動脈血酸素飽和度のほか呼吸数、換気量、気道内圧、血液ガス、
酸塩基平衡などが挙げられる。また循環器系のモニターとしては、心電図、心拍数、
動脈圧、中心静脈圧、プレチスモグラフ、特殊な例で心拍出量、血管抵抗、肺動脈圧
、肺動脈楔入圧などがある。そのほか、吸入麻酔薬濃度、体温の測定も可能である。
麻酔モニターでもう一つ重要なことは、得られたデータが十分利用出来なくては測定
する意味が無い点である。すなわちデータの変化が何を意味しているのか十分解釈で
き、さらにそれに対応できなければ、高額な麻酔モニター機器を用いても安全性の向
上には結びつかない。
3. 術後(周術期)の疼痛管理
動物の痛みを正確に認識することは難しいが、動物でも各種疾患、外傷、手術など
によって、高頻度に疼痛が発生していることは間違いない。中でも術後(その中でも
とくに、整形外科、胸部外科)の痛みは強く、苦痛からの救済のために、あるいは動
物愛護的観点から十分な管理が必要である。疼痛は組織損傷の認識であり、重要な防
御機能の一つであるが、術後の疼痛は、生体にとって有害な面が大きい。たとえば、
疼痛は食欲の回復を阻害し、交感神経の緊張は体内異化を亢進することにより、術後
の回復遅延、創傷治癒遅延などを引き起こす。動物の疼痛管理で重要なことは、1)
動物が痛みを感じていると思ったら、はっきりしなくても治療を開始すること、2)
疼痛が発生(強くなる)前に、予防的に鎮痛処置を行うことであり、いったん疼痛が
強くなった後では、鎮痛処置の有用性、成功率は低下する。動物の疼痛管理の主体と
なるのは、薬物療法であるが、疼痛反応に直接含まれない周囲環境や水分栄養管理な
どの面からのストレス軽減も重要である。
薬剤による主な鎮痛法としては、1)オピオイド、非ステロイド消炎薬などの全身
投与、2)肋間、胸腔内などの局所麻酔、3)オピオイド、局所麻酔薬などを用いた
硬膜外鎮痛が挙げられる。オピオイドは、モルヒネなどの麻薬指定を受けた薬剤と、
一部のオピオイド受容体にしか作用しない麻薬指定を受けない薬剤がある。麻薬系の
鎮痛薬は、取り扱いに免許が必要で、薬剤の管理や記録が煩雑であるため、ブトルフ
ァノールなどの麻薬指定のない薬剤が好んで用いられている。しかしこれらの薬剤は
、用量を増してもある一定以上の効果は得られない天井効果が認められ、術後の痛み
のような強い痛みでは十分な効果が得られない。近年注目されているのは、オピオイ
ドを用いた硬膜外鎮痛であり、少量のオピオイドを硬膜外に投与することにより、全
身投与時に見られるような呼吸抑制、徐脈、嘔吐などの副作用が発現することなく、
12〜24時間持続する非常に強い鎮痛効果を得ることが出来る。
以上のように犬や猫の臨床例に対する麻酔法は、疼痛管理の部分を取り込んで、大
きく変化してきている。とくに疼痛管理の問題は、今後ますます厳しく要求されるよ
うになってくるものと思われる。
jalam@iexas.med.osaka-u.ac.jp