新撰組の京都を歩く (2004.1/5)

今年の大河ドラマは「新撰組」である。
多分、例年のごとく、本編の後にゆかりの場所の紹介があるだろう。その前に、京都に限って、それも小社の出版した内藤益一先生の『京都細見』中から抜き出して、事件の場所の略図を入れた。京都散策の一助になればと思う。
 
※リンク箇所は地図を表示します。見出しの行頭数字は書籍の見出し番号、。行末は頁。合わせて目次もご参照ください。
 
59 壬生界隈と西本願寺界隈  P300
新撰組が京都に現れたのは、江戸時代の末期、勤王か佐幕かで大騒ぎになっていたときである。文久三年(1863)2月であった。「屯所は壬生寺のそば、八木源之丞宅と前川荘司宅。狭い道路一つをへだてている。隊員の多くは近所に分宿した。」「寺の東側の坊城通りに八木家の古い邸が残っている。その東向かいに前川家の長屋門が見える。」
「最初、組の筆頭は芹沢鴨。」「文久三年(1863)9月18日の夜、芹沢を粛正し、近藤が局長となる。」芹沢が寝ていたのは八木家の一室であった。
 
31 島原界隈 P151
壬生寺の南は、一面の田圃であった。その先に島原の廊が望まれた。
また、「西本願寺の西方に当たる。花屋町を大宮から二百米ほど西へ行った突き当たりに大門がある。」「角屋と輪違屋とは立派に保存されてはいる。」
輪違屋の深雪大夫が近藤勇に身受けされている。
 
「新撰組が名を挙げたのは、元治元年、1864、6月の三条池田屋事件である。」新撰組といえば池田屋を連想する、切っても切れない事件である。
 
61 蛤御門界隈出雲路橋界隈 P312
同じ年の7月19日、蛤御門の変が起こった。そのころ、新撰組は「日中は仙洞御所前の警備に就き、夜は南門を固めた。」戦いは長州の惨敗であった。
 
この変の最中に入江九一も戦死した。その墓が「鞍馬口通りの出雲路格の西の上善寺」にある。敵であった越前兵が葬ったのである。
 
24 二条城界隈 59
幕末京都の幕府側の中心地である

62 三本木界隈 P312
変後,桂小五郎は、「姿を消した。幕府方探索の的となり、三本木の料亭吉田屋に潜んだ。芸妓の幾松がついている。突然、新撰組の御用改めがあり、主人の知らせで辛くも秘密の抜け道から裏の河原に逃げた」。
 
72 白川藩邸 P371
当時、土佐藩邸は白川にあった。陸援隊の本拠がここにおかれていた。慶応3年か4年のことになる。戸沢寿郎がここを出て大阪へ向かうため、高瀬川の船入に向から途次、荒神橋の東詰に来たところ、沖田総司によって斬られた。司馬遼太郎さんが『新撰組血風録』の中の「菊一文字」で取り上げている。

やがて、提灯の群れが、眼の前にきた。
「そこに」
と沖田がいった。
「戸沢鷲郎がおられますか」
「何者だ」
「新選組の沖田総司です」
戸沢。――
ツツ、と踏み出し、大きく飛びこんで、剣を抜きあげた。が正確にはその剣がわずかに鞘を離れきった瞬間、戸沢の笠が破れ、脳天が割れ、飛びこんだ姿勢のまま、勢いよく沖田の足もとにむかって頭からのめり、どさっと倒れた。即死している。
沖田は、前を見た。左下段に構えながら、
「私の用は済んだ。これで引きあげますが、おひきとめになりますか」
と、年長者らしい男をみた。

もっとも、見事な一場面である。
 
59 壬生界隈と西本願寺界隈 P300
 「隊員の数が増えるにしたがって、壬生では収容しきれなくなり、慶応元年(1865)四月下旬、西本願寺集会所に移転した。壬生にいたのは2年間である。」まもなく「西本願寺の南方に新屯所を設立した。」「不動堂村屯所」である。「新屯所にいたのが約二年半」である。
 
69 河原町蛸薬師界隈 P358
慶応2年1月23日、伏見の寺田屋にいた坂本竜馬が襲撃され、あやうく難をのがれた。
しかし、翌年の11月15日、竜馬は中岡慎太郎と、近江屋にいたところを磨われ襲われ、殺された。この犯人は新撰組といわれたが、説が分かれており、今もってはっきりしない。
 
70 木津屋橋界隈 P362
その3日後の11月18日、新撰組は伊東甲子太郎を七条の油小路で斬った。伊東は新撰組の幹部であったが組を脱退した後、襲撃されたのである。

1か月後の12月7日、陸奥宗光らが、竜馬の敵討として、三浦休太郎をねらい、新撰組と飲んでいた三浦を天満屋に襲った。油小路花屋町にあった。
 
この2日後が、王政復古である。
 
明けて慶応4年1月3日、鳥羽伏見の戦が起こった。
新撰組は伏見の御香宮の南にいた。戦いは幕府側が負けた。
幕府軍は京都を去り、新撰組も去った。
 
新撰組が京都に滞在したのは、わずか4年半にすぎない。
 

 
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