アドスリーの出版事業部では、生命科学雑誌Biophiliaをはじめ、実験動物学、医学、科学技術といった高度な専門領域から、サッカー、文化財、建築、歴史といった領域の一般書まで、幅広いジャンルの書籍を発行しています。 また、電子書籍化や、大学の講義、講演会等で使用する教科書の制作、販売(書店流通)も行っております。

逆転の発想で悪の罠を見抜き人生の悩みを裁つ―弁護士50年の法力

逆転の発想で悪の罠を見抜き人生の悩みを裁つ―弁護士50年の法力

商品コード: ad70011

著者: 松枝 迪夫

発行日: 2010年7月10日
判型: A5判
頁数: 260ページ
書籍コード: ISBN978-4904419083
定価:1,650円 (本体価格:1,500円)

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人生を幸福に生きるためには、まず人にだまされないこと、次に、健康で長寿であり続けることが重要。弁護士として様々な人生の悩みを受け続けてきた著者がたどり着いた、様々な問題解決方法をまとめた書。

逆転堂通信第 1回


チベット紀行―セラ寺の問答

チベットと言えば、中国オリンピック(2008年)の開会直前に首都ラサで起こった暴動事件がまだ記憶に新しいでしょう。私はその前年(2007年)8月に、中国が鳴物入りで天空列車と名づけたご自慢のチベット初めての鉄道に乗る機会がありました。 四千メートルを超える高原の旅行とはどんなものかという期待と、健康不安の入りまじった気分で、周囲の風景を楽しみながら無事ラサに着いたときホッとしたことを思い出します。 今はテレビなどでチベットの風景やラサの町や人々の暮らしぶりもかなり紹介されてきていますのである程度想像はつくでしょう。しかし旅は実際に見る、聞く、食べる、寝る、ですから価値はあります。酸素が稀薄とはどういうことかというのもわかりました。私は肺の切除をして肺活量が少ないので、この点を一番心配していました。何しろラサは3700メートルの高地だからです。 しかし、何事もゆっくり動き、ゆっくりしゃべっていれば、酸素の消費量が少なく大丈夫だとわかりました。ラサの中心にあるポタラ宮殿は何百段の坂道を上がった所に拝殿(法王の御座所)がありますから、息を整え休みながらゆっくり歩むことが大切でした。 ラサの北郊にセラ寺という名刹があります。明治時代に河口慧海や多田等観という僧侶が大変な苦心の末チベットに入国しここで修業したという有名な寺で、かつて3千人の修業僧がいたといいます。 その修業の一部を紹介したいと思います。この寺の中庭に多くの若い修業僧が集まって問答をしていました。観光客に公開で、写真も自由にとってよいということでした。 昼食後、私達もそこに入れてもらい、待っていると、だんだん多くの修業僧が集まってきました。10人、20人と人数か増え、最終的には百人以上になったかと思います。 この人が沢山のグループに分かれ、1グループは原則2人、たまに3人くらいで、中央に一人の質問をする問者がすっくと立ち、他はあぐらをかいて座って身構えます。問者が何やら気合をこめて質問すると、答者が返答する、丁々発止と受け答えをしている。 私らには何を議論しているのかわからないが、問者は観光客が見ている手前もあるのか、足を踏み出し、片手をあげ、大仰に身振り手振りで答者に迫ります。 この問答は、多分何百年と続いている伝統的教育法であろうと思われますが、その様を詳しく書き残している河口慧海(「チベット旅行記(三)」講談社学術文庫)によって説明しましょう。 問「仏は何者なりや」  答「仏は人間なり」 問「しからば仏は生死を免れざるべし」 答「否、仏は生死を超越したり」 問「仏は人間なりとすれば、生死を免れることはあるまじ。汝のいうことは間違いにあらずや」 そこで答者は色々な応対を迫られることになります。たとえば、仏に法身、報身、化身の三種あり、人としての生死は仮の姿なりという答があります。 そうすると、これまた問者は、仏の開祖はインドの釈迦牟尼(シャカム二、いわゆるお釈迦さんという人間)なり、それがいかにして三種の化身に化体するや、と詰めよります。 この二人の動作の大きいこと、問者は左手に数珠を高くかかげて地面の答者をへいげいし、時に左と右の足を踏み鳴らして、さあどうだとばかり迫る。答者これまた眼光けいけいと睨み返して声も大きく、しかも巧みに切り返すという具合なのです。 この問答をしているグループの中にやゝ年輩、長老的な僧が時に加わっているが、多分彼が後で個別指導したり全体講評をするのではないかと思います。 これをみて、私は日本の禅寺での問答とは全く異なると思い、なかなか修業法としていいのではないかと思いました。 日本の禅の考え方は、もともと不立文字で、言葉で悟れるものでなく、真理は瞑想と直観でつかむべきだとしています。だから、公案を交えての問答という形式の教育法があってもこのような西洋式ディベートのやり方にはなじまないのでしょう。しかし、現今の国際社会ではどんな分野でも西洋的合理主義、 論理主義が支配的になっているので、弁論を巧みにする能力はこれからは欠かせないし、生きていく上での重要な素質の一つだと思います。 ちなみに、日本の法学教育でもただ法学のテキストを読み、教授の講義を聴くだけでなく、アメリカのロースクールのように活発にケーススタディで討論するというようなやり方を工夫するのも必要だと言われていますが、それを痛感した次第です。 なお一言余計なことをいいますと、最近の若者は、アナウンサーもそうですが、概して滑舌が悪く、声も低く、不明瞭です。語尾も消え入り、何を言ったのか聴者にはわからないことが多い。女性アナウンサーはテレビ映りのよさを重視して選ばれるのか、基本的なこの話し方の訓練ができていない人が多い。おまけに、間違った読み方を時々平気でする上、それに気付いた訂正も後日行われないようです。ですから、人々はその間違いを、テレビで見聞したままに、正しいと思ってしまう。そして、それが次世代の無知な若者に伝わっていきます。もちろん、これは根本は教養の問題ですが、少なくとも発声と渡された原稿を正しく読む勉強位は必要ではないかとこの頃強く感じます。

逆転堂通信第 2回


「生きている超高齢者」と「死せる魂」

2010年という年は、親孝行という基本の道徳が黒枠で囲まれたことをはっさりさせたという意味で「歴史的な年」でした。 長寿社会の是非がこんなに論じられた時代はこれまでなかったと思います。90歳代の、はては100歳代の高齢者が目出たく生きているのかと思ったら、実は行方不明で、その面倒を見ているはずの子ども(この人達も喜寿や還暦後)に市役所や民生委員が親の消息を尋ねても知らないという答えが返ってきたという、時には老人の行先といわれた先の身内を尋ねてもその消息はわからないというのです。なかには、親の葬式をあげるでもなく、ただ遺骨を骨箱に納め、手元に置いていたという人の話があります。この人は引越しの時はその骨箱をリュックに詰めて背負って歩いていたというのです。でもこの人は、身近にいて弔っているという関係にありますから、まだ同情できる所があります。もっと不可解なことが発覚しました。同居している家族は、親のことを尋ねられると奥の間で病気で寝ていますといって調査訪門者に会わせようとせずにいたが、実はその親はミイラになって久しく、その家で死者と子どもと孫とが同居していたという話です。もっとひどいのは、死去していた親を生きているように装って老齢年金をもらっていたりしていたという事件です。 こういう事件が次々とわかって、では超高齢者は本当に生きているのかどうか、自治体で調査を始めたら、行方不明者が大 変な数になってしまったのです。人の最後を看取るのは子や孫などの肉身でしょうが、何年も何十年も行方不明になった親のことを放ったらかしにしているわけで、葬式も死亡届も出さない遺族が沢山いるわけです。死亡届をわざと出さない人もいるが、その理由は欲得で年金を詐取していたというわけです。 これはこれまでの常識を全く覆えすもので、この報道がでるまで普通の人には想像もできないことでした。 ところが、これとある意味で似たようなことが扱われていた小説のことをふと思い出しました。皆さんは、19世紀のロシアのゴーゴリという小説家をご存知でしょう。彼に「死せる魂」という有名な作品があります。 これは題名からすると、宗教の話か、魂や精神が死んで甦えるというような話かと思われますが、この魂とはロシアの農奴のことです。当時のロシアの農民は、日本の江戸時代の農民よりもっと地主に搾取されがんじがらめの苛酷な労働と不自由な生活を余儀なくされ、売買されるモノでしたので、奴隷に近い農民という意味で、歴史上「農奴」といわれていました。では「死せる農奴」とはどういうことでしょうか。この話はまことに奇怪な話で興味をそそられるものです。筋書きも奇抜ですが、そこに従横に書かれている当時のロシアの社会風俗、人々の考え方は大変に面白く参考になります。是非一読を勧めます。 この内容は何か。要は、死んだ農奴をその農奴の所有者たる 地主から安く、しかしとにかく死者に対価を支払って買い取る人の話です。死人ですから葬儀屋のように手間賃をもらって片付けるとか何が縁故があってタダで引き取って弔ってやるというのが常識でしょう。ところが、この買手の男は、死んだ農奴を広くあちこちの地主と巧みに交渉して安く買取って最後は数百人の農奴を手に入れるのです。では何のためこんなことをするのか。  皆様もこの小説を読んでおられなければ、一体全体、なんでこんな不可解なことをこの商人はするのかと思われるでしょう。確かにこの不思議な話は、その村々や町々で、人々の噂になり、不可解なこととして尾鰭がつき大騒ぎとなるのです。最後は、こんなことをする男は何者なのかとの疑いがわき、ナポレオンの変身(日本でも義経は色々な人に変身した)ではないかとさえ言われだしました。 この不可解な話の謎解きは次回としましょう。ただここで言えることは、人間は人に見つからなければ人殺しでもするといわれますが、人間は金儲けのためなら何でもする、破廉恥なことでも違法なことでも平気でする動物だということです。 この話は小説で、それも相当昔の19世紀(ちょうど去年はゴーゴリの生誕200年で、彼がこの小説を脱稿したのは31歳のとき)、所もロシアですが、日本の超高齢者が葬式も出してもらえず、国の年金をだましとる道具として戸籍上生き続けていると いう話と引き比べて、人間の心の奥底に潜む欲望の恐ろしさと洋の東西を問わない人間の持っ業のせつなさを思いませんか。

逆転堂通信第 3回


東京にバべルの塔出現す

私の部屋から上野の森が、朝タは黒々と墨絵のように、昼は美しく輝く緑に、一寸深山を思わせる雰囲気で眺められるのですが、そこに異変が起こっています。ちょうど太陽の昇る方向に新塔が次第に背を伸ばしてきたのです。
この塔こそ話題の東京スカイツリーと呼ばれる世界最高をめざすタワーで、完成すれば634メートル、建設地江東区を含むかつての江戸は武蔵国、それに因む高さの、途方もない巨大塔となります。この完成は2012年春、もう1年半もありますがすでに日本一の東京タワーをはるかに超えています。
これを見て、私は旧約聖書に登場するバべルの塔とつい比較せずにはおられないのです。
この旧約聖書の話は有名ですから大方の皆様はご存じでしょうが、知らない方のために一寸説明を致しましょう。物語りは旧約聖書創世紀第11章にあります。
ノアの方舟のお蔭で大洪水から救われた人類の祖先はその後アララト山に漂着し、各地に分散し繁栄していくことになります。さてシナルの地―これは今のイラク、メソボタミア地方―に移り住んだ人たちは、皆同じ言語を話し恐らく平和に暮らしていました。歴史上の国としては新バビロニア帝国で、時にネブカドネザル2世という奇妙な名前の国王が勢威を振るっていた頃、紀元前6世紀あたりです。
「さあ、町と塔を建ててその頂きも天に届かせよう。そしてわれわれは名をあげて、全地のおもてに散り散りになるのを免れよう」と人々は言って、石の代わりにれんがを造り、しっくいの代わりにアスファルトを得て建設を始めました。
この記述は、当時の科学技術、建築技術が急速に進歩していることを示唆しているし、国民一丸となって働らけという国王の命令で大国意識に燃えて働いていたことを示しています。客観的に見れば、そこでは無論無数の奴隷、下層民が酷使されていました。そうした奴隷ですが、ユダヤ人が彼らの祖国カナン(今のイスラエル)から何万人という民族ごと捕囚としてこの地に移され、酷使されていましたのでそのユダヤ人が含まれていたでしょう。ついでにこのバビロン捕囚の話をすると、ユダヤ人が捕囚となったのは紀元前586年のことです。ユダヤ民族はここで50年位捕囚生活を送ったのですが、その辛い時代に、多分祖国ユダヤの地を偲んで望郷の歌を合唱したでしょう。この望郷の歌は、19世紀になって有名な歌劇作曲家ヴェルディによって「ナブッコ」というオペラの中の名曲となりました。この曲は本当に素晴らしく、イタリア第2の国歌といわれている程です。私も合唱団の一員として舞台で歌いましたが、涙がでてくるような感動を覚えました。何故、イタリアで第2の国歌といわれるのか知りたい方もおられるでしょうが、本稿からは脱線しますので別の機会にしましょう。
ところで、ユダヤ人が祖国に帰還を許されたのはこの新バビロニア王国が、新興勢力のペルシア(今のイラン)によって滅ぼされてからです。
さて、段々と天に伸びてくる巨大な塔をみた神は何と思われたでしょうか。天国の階段をよじのぼってくる人類の節度を忘れたごう慢さと神を畏れぬ所業をみた神は、これを憎みこらしめようと思ったのでしょうか。聖書には神がそう思ったとは書いてなく、ただ神は、彼らの唯一の言葉を乱し、互いに言葉を通じないようにしようとしたとあります。その結果、お互いの意思疎通ができなくなり、混乱対立が生じ、工事現場でも収集のつかない混乱が生じ、塔とその町の建設は中止されました。その有様は巨匠ブリューゲルの手で見事に描かれています。この絵の工事現場の美事さと現代工法の現場を比較してみて下さい(写真参照)。それで町はバベル(乱れ)と呼ばれるようになり、人々は全地上に散らされてしまいました。
各民族の言語が異なるというのは大問題であることは、現代のグローバルな時代に私たちが痛切に体験していることで、現今の民族対立、紛争の根本原因はそこにあると考えれば、聖書でいう神のとられた仕打ちの適切なこと、さすが神の仕わざと感嘆するものがあります。知恵の実をたべて小利口になった人類は、神の罰により楽園を追われて地上に降りました。だが、そこで悪知恵を発揮して遂に窮極の破壊兵器原子爆弾まで製造することができるようになったのです。地球環境の保護とかいって今頃大騒ぎしていますが、もう破壊は止めようがないのです。途方もなく発達した科学技術、それを抑制する人類の力の無さ、世界統一を妨げる人類の果てしないエゴ、こうした結果世界各地はバべル(英語のバブルと同じ意味)の温床をいつでも生んでいるのです。
今の新しい塔はよりによって世界でも有数の地震国のしかも東海地区に建築されつつあるのです。私はお茶を飲みながら天にはい上がっていく現代版バべルの塔を毎日見ています。上部に袴のような膨み部分(これは展望台になる)があり、そこを工事現場にしつつ、尺取虫のように伸びています。マグニチュード9~10位の巨大地震がきたらどうなるのだろう、神の怒りがいつ下るのだろう、ニューヨークの9.11事件のような悪夢が再現するのではないか、数百万人の下町の人々の運命はどうなるのかと、完成の喜びどころか、逆転した場合のことをつい想像してしまうのです。
完成したこの塔から発せられる電波こそ、聖書でいわれたバラバラにされた言語を地上の隅々にまで届ける道具の役を果たすという念の入りようです。人類の技術の粋をこらしたこの巨塔は遂に天国に迫りつつあり、いつ神の怒りに触れるかわからない段階になっているのではないでしょうか。栄華は滅亡へ、天国の喜びから地獄の苦しみへ、逆転する日が来ないことをただ願うのみです。小市民として小さな欲で固まっている私としては、何とかいう凝ったコーヒーを勧められそのふくいくたる香りを味わいながら、美しく空の高みに伸びている東京スカイツリーを毎朝眺めてあれこれ人類永遠の平和とかノーベル賞基金の元となった火薬発明王ノーベルの贖罪のことを思っています。

逆転堂通信第 4回


「死せる魂」は何の役に立つのか

世に奇怪な事件は多々ありますが、自分の年老いた親の死後も年金支給の道具として葬式もしないという話ほど最近驚いた事件はないでしょう。本当に心が氷るような衝撃を人々に与えました。 これは2010年の日本のこと、これとある面で似たような事件が19世紀ロシアの著名な作家ゴーゴリの「死せる魂」という小説に書かれています。 前回この話を紹介しましたが、今回は、何故、死せる魂、つまり死んだ農奴が売買されたのかという謎解きをしましょう。 当時の市井の人も、死んだ農奴を売ってくれという金持ちそうな人がやってきて、実際に金を出して何百人も買い集めたという噂には興味深々で、色々想像を逞しくした話に聞き入っていました。 そもそもこの買い集めている主人公チチコフとは何者かという噂話でもち切りでした。チチコフは百万長者らしいということで、知事主催の舞踏会などで大もてでした。その内に、チチコフに自分の死んだ農奴を一人あたり2ルーブル半で売った女地主が、後でよく考えてみたらどうも3分の1の安値で巧く売らされたような気になり、本当に相場はあるのか、損をしたのではないかと市にきて問合せを始めました。それをきっかけに、買主チチコフは何者なのか、知事の娘をかどわかしにきたのではないのか、あるいは、にせ札犯人ではないかという噂も出て大騒ぎになりました。 折りも折り、新しく任命された地方総督が、ふと行政監察のため中央から近く派遣されてくる役人のことに思い当たり、チチコフこそその内密な使命をおびた役人ではないかと疑い出しました。ある病院の急患が病院のミスで死亡したが、その不適切な措置をごま化していたことが自分の責任で、それが調査の対象になっているらしいと心配になってきました。また裁判所長は、農奴の売買の登記を管理する立場にいました。もし本当に死んでいた農奴の売買登記を認めたとなれば、事実調査を怠たった責任は重い、まして実際は、裁判所長はチチコフからワイロをもらって虚偽の事実を知りながらそ知らぬ顔で登記手続をとり、おまけに手続の代書までやっていたのですから真青になってしまいました。 そんなこんなで、市としてチチコフを調査し、場合により逮捕しようということになってきました。それを察知したチチコフは、密かに宿を脱出し、逃げるように馬車を急がせ、従者もうまくいいくるめて残し、村の街道をひた走り、独り村はずれまでやっと逃げおおせました。そして、これから「死せる魂」をうまく利用して20万ルーブルの大儲けをする夢にひたると、思わずにこにこ顔になるのでした。 思えば、自分ほど不幸な経歴の者はいない、貧しい家庭に育ち、始めて税務監督局に就職でき、真面目に働いて出世街道にのりかけたのについ欲に目がくらんで税関権限を使って密輸団に手を貸して旨い汁を吸った。そこまではよかったが、それもつかの間、密輸事件がばれてクビ、それから転落の人生をたどり始めたのです。最後は代弁人(行政代書などのよろず屋的な仕事)をしていたが、そこで面白い話を聞いたのがきっかけです。それを使って百万長者になれると思えば、つい嬉しくて......。 さて、かいつまんで、何故死者が金になるのかお話しましょう。その話というのは、数百人の農奴を抵当にして金を借りるというカラクリです。当時、後見会議院という役所(今なら多分農業事業を援助する機関)があり、農奴を所有する地主に、農奴―人当たり200ルーブルの貸出しをしてくれるというものでした。 チチコフの閃きは天才的でした。自分が多数の農奴を所有する大地主になればこうして金を手に入れられるのだ、ではどうすれば大地主になれるか。当時、農奴の登記がなされる農奴調査簿の記載のみで、農奴の売買がなされるのが実情でした。(ちょうど、不動産売買登記は、実態調査をせず登記簿の記載のみでなされるのと同じ)。死んだら抹消ですが、抹消登録は死亡日時とタイムラグがありますから、その間幽霊農奴が何年間か存在しうるのです。当時、3年ごとに調査がなされ、その間移動訂正はないし、また出来ない制度のようでした。 では、死んでも生きているままの登録にしておくと、どうなるか。その農奴に対し人頭税がかかり、地主の損になります。そこで、チチコフの提案のように、人頭税程度でも損をしない金で死んだ農奴を売れるなら地主は有難いというので売る気になるわけです。 一方、チチコフは、農奴を何百人も買ってかかえこんでいる帳簿上の大地主です。しかし、実際に農奴の働いている一片の土地も彼は所有していません。そこで、次は地主になることです。国土は広大なロシアですから、未開の荒地を一村ぐらいタダ同然で買うことは何でもないのです。こうして、実際には人も住んでいないような僻地の村を買い取り、そこに何百人の農奴を移住させたことにすれば、もう立派な担保物件付きの広大な土地の大領主様というわけです。 そんなことがうまくいくのかとお疑いの人は、真面目な現代の日本社会に生きておられる人だからです。何ごとも鼻薬と裏取引、ワイロ万能の今も昔も変わらぬあの国のことですから、成功間違いなしとお思いになりませんか。

逆転堂通信第 5回


イランの旅(1) ゾロアスターと聖火

今年の初夏(2011年5月)に、イランの遺跡めぐりの旅行に参加し、各地を訪れましたので、その印象をこれからしばらく書きましょう。 イランは国が大きく、面積は日本の4.5倍、その3分の1は砂漠ですが、そのへそにあたる中心に、ヤズドという町があります。 イランはほとんどが高原で平野は周辺に少しある程度です。ヤズドは海抜1200メートルで信州高原位ですが、砂漠の近くで大変暑く、緑も少なく、町の郊外は荒涼たる砂漠風景です。ここはゾロアスター教というイラン古来からの宗教がいぜん信仰されているので有名な所です。町にゾロアスター教の神殿があって、聖火が1500年前(この古さにご注目!)から絶えることなく燃やされ続けているのだそうです。建物の中に入るとガラスで囲われた祭壇があり、有り難そうな火が燃えています。 この古い宗教は拝火教と中国語でいわれていますように、火を拝んでいるように思われます。しかし実は火を拝むのではなく、天地を支配するアフラ・マズダという絶対神がいて、本当はその神を尊崇しているのです。この神は、天上にいますから、火は炎と煙になって天に上昇してゆくので、神に祈りを伝える一番有力な手段になるのです。そのため、かつて国王も宮殿の一角に聖壇を設け、火をたいて祈ったのですが、一般信者も火を拝みますから、外部からは神の姿は火だと思われたのでしょう。 何故火が大切にされ崇敬されるのかというと、もともとゾロアスター教の思想では、4大元素を宇宙の根源と考えます。4大元素とは、天(空気、風)、地、水、火で、これらを神聖なものとみます。なかんずく火は特に上に述べたような理由で重要視されたのです。 火とは皆様もすぐ連想されるように、光であり、光明の源でもある太陽、日輪(時に月の光)です。 日本でも太陽信仰があり、古事記神話の中の最高神である天照大神を祀るという思想があります。 エジプトは太陽信仰の代表的な国ですが、こうした考えはゾロアスター教の成立以前にメソボタミア文明に普遍的なものです。それを吸収したイランの古代人、インド・アーリア民族の思想の中に太陽や火への信仰があったのです。 さて、拝火教の教えの内容、アフラ・マズダ神とは何なのでしょうか。それは次回に。

逆転堂通信第 6回


イランの旅(2) ゾロアスター教と鳥葬

現在のイランは厳格なイスラム教の国ですが、もちろん少数派の宗教もあります。その中で珍しいのは、古代からあるゾロアスター教という宗教です。紀元前数世紀から千年も昔に創始されたらしいのですが、開祖ゾロアスターについて生没年に異説もあってはっきりしないようです。 ゾロアスター教の信者は、今やイランの一部とインド西部のムンバイの限られた地域に細々と暮らしているようです。全世界でも総数10万人くらいらしいのですが、閉鎖的集団のため情報がとれにくいので、現状はよくつかめていません。 しかし、この信者は葬式を鳥葬(風葬)にするというので知られています。この鳥葬はイランのヤズドにその場所があります。私はそこを訪れたのですが、近くに70年くらい前まで実際に使われていた岩山があります。沈黙の塔と呼ばれている、高さ100mにもならない小山の頂上に円形の壁で囲まれた塔があります。 山頂には直径10mくらいの壁(石と煉瓦造)がぐるりと囲んでいる所があり、その内側に入ると砂と土で固めたグランドがあります。中央部に井戸が一つあります。壁の高さは5mくらいで外部へは、小さな出入口一つでつながります。遺体はここへ裸で運ばれるとただ地面におかれます。すると、鳥(コンドル、ハゲワシ)がやってきて、たちまち骨だけにしてしまう、それを遺族が確かめた上で、骨を集めて井戸の中へただ放りこむのです。我々のように頭骨など人骨の一部を大切に保存するということはしないようです。 この風習は、パーラヴィ王朝の1930年の禁止令で行われなくなりました。その代わり、今はイスラム人と同じょうに土葬にすることになり、沈黙の塔に隣接して新しく作られた公共墓地に埋葬しているそうです。イランでは鳥葬は禁止されましたが、インドではいぜん現在もゾロアスター教徒は、鳥葬を行っていると紹介されています。また私が以前訪れたネパールでも鳥葬はありますから、この風習はさほど特異ともいえないようです。 イランで鳥葬する理由は、他の国とは異なるのです。ゾロアスター教は4大元素である地、水、火、空気を神聖なものとして大切にしています。人間の死体は不浄なものですから、大地に埋葬するのは地をケガすことになりますし、火葬にするのは火をケガすことになります。それで鳥にたべさせることは環境浄化の意味ですばらしいことなのです。鳥は植物の肥料となり、また植物から動物へと永遠に輪廻するので、霊魂の永遠性を保証することにもなるのです。 インドを訪れたとき、死体を焼いて灰をガンジス河に流すのを見ました。死体そのものを流す所もあります。これも死体は魚の飢食となり、植物を肥やし、永遠の輪廻の流れに入ることで同じような思想にもとずくものです。 インドとイランは同じインド・アーリア民族が民族移動してできた国ですから、そのもってきた自然崇拝とか輪廻という根本の思想は同じです。ヒンドゥー教の原元のバラモン教はこの民族の根源思想ですから共通です。ネパールは樹木が少なく、火葬にする樹木がないので、金持ちを除き、大衆はやむなく風葬ということになります。貧困が原因というならば、インドの大衆にとってはもちろんそれが主たるものかもしれません。日本の江戸時代などの楢山節考で描かれているオバ捨の世界も貧困が最大の原因でしょう。理由づけは何とでも考えつくが、結局、貧困という経済的要因ほど強力に働らくものは他にないのですね。 ヤズドは暑くて、「沈黙の塔」へ砂漠の地面を歩いていったとき50度を超えていました。ただ黙々と、あえぎあえぎ老人も含む一行が登頂したのですが、古代、中世のイラン人はどんな気持ちで鳥葬をしたのか、貧困と悲しみを宗教のカで乗り越えられたのだろうかとつい考えました。

逆転堂通信第 7回


イランの旅(3) ゾロアスターとはいかなる人物か

前口上
  前回までに、(1)拝火教といわれるゾロアスター教と聖火の話、(2)ゾロアスター教と鳥葬の話をお送りしました。さて、今回のイランの旅(3)は、いよいよゾロアスターの本体に迫ろうと思います。

実はこの奇妙な名前の宗教のことは以前から知っていたのですが、今回のイランの旅でその実際に信仰されている国の実情をみて興味をそそられてきました。そこで、帰国後、参考資料を読んだりして勉強したのですが、なかなか奥深いことがわかり、そうたやすく全体像はつかめないのです。 簡単な宗教解説書をいくら読んでも色々な説やら解説があって、統一されていません。それで、源流を遡及してゆくと、開祖ゾロアスター個人が説いたものといわれている教典にたどりつきました。アヴェスターという教典で、彼個人の説を後世にまとめ、その後の教えの発展を取り入れてあるということです。キリスト教の聖書や仏教の経巻のようなものです。しかし、これらの大宗教と違って余り研究されていませんから、日本語訳もようやく整いつつあるという位で、まだ全部に行き届いていないようです。ですが、その核心と思われるものが訳されて世界古典文学全集にありましたので、一応それに目を通しました。正直いって、難しいのです。内容にたどりつくには神々の名や色々な固有名詞の知識と、当時のイランの宗教事情の知識が必要なのです。訳者は註を入れてくれていますが、アマチュアにとって、まずそこが難しいというのが実感でした。 そんなこんなで、まあいい加減なところでやめて、次の機会ということにしましたが、この逆転堂通信の読者のために、私の一知半解の知識で少しかじったという程度で、ゾロアスター個人と教義と私の感想をこれから述べたいと思います。面倒臭いと思われる方は投げ出して下さって結構です。好奇心のお有りの方は少しつき合って下さい。

ゾロアスターの人物像

ゾロアスター教の教祖で実在の人物です。イラン北部出身、紀元前660年生まれ、紀元前583年に77歳で戦死したというのが定説のようですが、紀元前1000年位の人という説もあり、まあ紀元前7世紀位と考えておけばいいでしょう。 若い頃、砂漠で生と死の問題を考え、30歳で神、その当時の有力な神だったと思われるアフラ・マズダ神の啓示を受け、深くアフラ・マズダを信じ、精力的にイラン東部、アフガニスタン方面で布教活動を行いました。 当時もそうですし、いつの世もそうですが、有力な支配者・権力層は腐敗堕落しています。部族の軍人階級、宗教祭司の聖職者―当時これをマギと呼んでいました。面白い話がありますが、魔法magicはこのマギという言葉からきます。それを知っただけで、このマギ達がどんなことをして大衆から巧みにしぼりとっていたかを想像させます。こういう点、もう少し時間があったら勉強したいのです。モーツァルトの「魔笛」の魔王というのもこうした聖職者の活動の系譜でしょう。この魔王の名をご存知ですか。ゾロアスターからきてますよ。―の不正を攻撃しました。日本の織田信長が比叡山を焼き打ちし、酒と女に溺れていた悪僧、女子供を何千人もみな殺しにしましたが、庶民はどこでもしぼりとられ、特権層はおいしい暮らしをしていたのです。

始めは一向に信者がつかなかったといいます。教えが多分革命的であり尖鋭すぎたのでしょうか。しかし、次第に理解され、地元のバクトリア国王ウィーシュタスパ王の改宗に成功し、その支援で有力になりました。ついには大ペルシャ帝国を創始したアケメネス王朝(BC550-BC333)の保護を受けることになり発展しました。その後、イランはアレクサンダー大王に征服されましたが、しばらくしてふたたびイラン系の大帝国サーサーン王朝(西紀226-651)が成立すると国教になりました。 ところが、西紀636年にアラブ族のイスラム教徒に征服され、以来、イランではイスラム教が国教となりました。ゾロアスター教はカを失い、今はイランには2万人位、またイスラムの圧迫を逃れてインド、パキスタンや中国方面に移住して今に至っている信者が8万人位、合計でも10万人位の信者という話です。閉鎖的な集団のため内情は不明です。 彼の肖像はないはずですが、最近イメージで彼を描いたという肖像がみられます。ゾロアスター教のシンボルは有翼の日輪で、ペルセポリスにあります。日本の天照大神のように光を崇拝しますので、光が左右に翼を拡げた形です。この光が彼の背後に輝いています。手に大きな松明を持っています。濃いひげを蓄え(イラン人はヒゲが大好き)、眼光鋭く颯爽と立つ英雄、武人宗教家の姿です。(日蓮上人とヤマトタケルを併せたような人物とでもいえばほめすぎですかね。)

皆様はニーチェというドイツの有名な哲学者をご存知でしょう。彼の代表作に「ツァラストラはかく語りき」という本があります。このツァラストラはゾロアスターのドイツ語読みです。ニーチェの思想は現代にまで深い影響を与えています。ニーチェは3000年も昔のゾロアスターの名前を借りて、何を現代の私達に語りかけたのでしょうか。 このニーチェの説く「超人」の思想については、ゾロアスターとどう関わるのでしょうか。 後日、ご案内いたしましょう。 音楽好きな人ならご存知でしょうが、リヒアルト・シュトラウスにニーチェの本と同名の交響詩があります。ゾロアスターはなかなか人気があるではありませんか。 マズダ(mazda)という神の名は、光を意味し、日本のマツダランプはこれをとったものです。戦後の日本の自動車会社マツダはスペルが同じため、イランの人々の間では人気があります。

逆転堂通信第 8回


イランの旅(4) ゾロアスター教の教義

ゾロアスターの生まれた頃、イラン民族はすでにアフラ・マズダ神への信仰をもっていました。彼は若い頃何回もこの神の啓示を受けました。 彼の受けた啓示、彼がその後説いた教えの内容は、教義として多少の変遷があるようですが、以下に私なりにまとめてみます。 ①この世には善悪の2神があって対立抗争をくり返す。この2神は最高神アフラ・マズダの双子で、その後に数人の神々が生まれますが、彼らも善と悪の二派に分かれ、お互いに相争うという複雑な関係になります。しかし、個々の名前や細かい関係はとりあえずどうでもよく、要は、善と悪が対立する二元論だということがポイントです。 ②最高神は、アフラ・マズダ(全知の王)で、最終的に善の神としてこの世で勝利します。このマズダmazdaは、マツダランプとしてその名が日本人にお馴染み。アフラは、ヒンズー教においてはアシュラ(阿修羅)となる神で、インドでは闘争を好む悪神となります。 ③アフラ・マズダ神は唯一神ではなく、その下にたくさんの神々がいます。アフラ・マズダの双子のうち、善神はパンタ・マンユといい、双子のもう一方はアンラ・マンユ(暗黒の神アーリマン)という悪神で、アーリマンは、父にあたる最高神アフラ・マズダに激しく敵対します。また、善神の側には七柱が存在して、アフラ・マズダを補佐して悪神に対抗するのです。ユダヤ教、イスラム教のような唯一絶対神ではありません。 唯一神を信仰する宗教はどうしても排他的になり、寛容ではなく、他の宗教を攻撃しがちです。現在のイスラムのテロとかパレスチナとイスラエルの激しい闘争をみればよくわかります。この点仏教は寛容な宗教ですから、世界平和のためには最もふさわしい教えのように思えます。アフラ・マズダは最高神ではあるが、唯一絶対というような強力な地位を与えられていないことがポイントです。 ④善徳の二神は双子として生まれたのですが、その他に、別の名前をもった神々がそれぞれ善と悪の二派に分かれて存在し、互いに戦います。世界の完成をざす善の神と、世界の破壊をめざす悪の神との闘争ですが、最後に善の側、アフラ・マズダが勝利し、悪は打倒されます。 ⑤善と悪の双子の神々は、それぞれの自由意思で善と悪の行き方を選択します。父なる最高神に命じられたり、あらかじめ運命づけられていないところがポイントです。 ⑥信者となる一般大衆は、善悪いずれの立場を選択してもよく、自分の好きな神を信ずることができます。各自の自由意思です。悪の神に従って、悪の行為をしてもよいが、それはその個人の意思によるものです。その責任はその個人が負わなければならないというのがポイントです。ここに倫理的生き方の大切さを説くこの教えの核心があります。 ⑦この世には終末があります。1万2千年という話ですが、開祖自身はそういってませんからこの数字は深く考える必要はないでしょう。地球進化論でも地球に寿命があることは明らかだからです。そういえば仏教では、弥勒菩薩は56億7千万年後の末法の世に出現するといいますね。この終末のときにこの世は灼熱の却火で消滅します。善悪の闘争ももちろん善の軍団の勝利で終末です。 ⑧この世の終末に、「最後の審判」が下されます。善行を積んだものは天国へ、悪行を積んだものは地獄へ堕されます。死者も呼び出されて裁かれます。すべての人間の行動ははっきりと記録されており、この全記録は最後の審判のとき提出さきれます。裁判官、裁きの人はアフラ・マズダで、補助をする3人の陪席に命じて全記録を精査し秤りにかけて審判を下します。これはユダヤ教、キリスト教、イスラム教と似た考えです。仏教には「地獄と極楽の話」はありますが、これは教えの便法の作り話で、とンズー教からきた考えで、「最後の審判」の考えはありません。 因みに仏教では、死者を極楽と地獄にふるい分けるとき、三途の川を渡るという考えがあります。ゾロアスター教では、検別者の橋、チンワトの橋を死者は通らなければならない、と説いています。そこで死者は最後の審判を受け、天国行きと地獄行きに選別されます。「三途の川」のサンズは古代インドのサンスクリット語の音訳だそうですが、仏教の源流の古代インドの宗教思想に古代イランのゾロアスター教の思想と共通する考えがあるということがわかります。 ⑨ゾロアスター教の信者はどういう生き方を要請されるのでしょうか。 三つの正しい生き方、(1)善思、(2)善語、(3)善行、が大切とされています。この三つの正しい生き方を選択して実践して行けば、義者となります。アシャ(天則)といわれる神が重要視されてますが、天則とは、天の理法、法則、秩序という抽象的概念を神格化したものです。この神の教えに従うのが義者であり、真・義・法を自ずから実践することになります。アシャの反対の悪神はドウルジ(虚偽・不義・非法)です。この神は、アンラ・マンユ(暗黒の神)の陪神で、手先になるダエーナ(もとは神、魂、我という意味ですが、後に悪い魂、つまり悪魔の意味となりました。)を使ってこの世、人間を誘拐し攻撃し破壊する働きをします。きわめてまっとうな倫理的な教えといってよいでしょう。 ゾロアスター教徒の信仰告白は「私はダエーナどもを呪う」で始まります。 では不義者はどうなるのでしょうか。死んだとき、またはこの世の終末に審判を下されて地獄に堕されるのです。 さて古代イランの日常生活で、では具体的にどんなことをすれば義者として善報を受けるとされたのでしょうか。伊藤義教氏の説明では(難解な「アヴェスター」を訳されてその解説の中で述べられていることが、簡にして要をえているのでそれを借ります。)こうなります。 「義者とは、アフラ・マズダを至高者と認め、ゾロアスターの説く主の教条に献身精進し、その勧説する定着農牧生活を受容するもののことです。これに対し、長苦に沈んで出期なき不義者とは、善者と対極の規準に従うもので、掠奪経済に依存するノーマドであり、特殊な儀礼をもって牛を屠殺供儀し、悪神ダエーナを崇めるもののことです。彼らの神事には酒が重要な役割を演じ(バッカスのような狂態をすることをゾロアスターは嫌った)、暗所を好んでその場所として用いたということです。(彼らは多分インチキ臭いことをしたのでしょう。)」

逆転堂通信第 9回


イランの旅(5) ゾロアスター教を現代の眼でみる

1.ゾロアスター教はこの世をどう見ているかー二元論 開祖ゾロアスターはすごい現実洞察力をもった人物だという気がします。 この世は善と悪が対立し抗争している、しかも善が簡単に勝利するという甘い御伽話は彼には信じられなかったのです。ユダヤ教的な一神教にとびつくと、全知全能の絶対神が天上に存在し人間世界を支配していると考えます。もしそんな全能の神、しかも善を窮極に実現される神なら、そもそもこの世にそんな悪をなぜはびこらせたのでしょうか。最初から、またいつまでも楽園に人々を住まわせればよいではありませんか。工デンの園から追放して人類を苦しめるという発想を創作する理由はないじゃありませんか。 この一神教のもつ根本的不自然さに、ゾロアスターは、この世には善と悪の神はほぼ対等なカ関係で存在すると主張しました。その説明のために、一応宇宙の体系だった説明として頂点の最高神マフラ・マズダに、双子がいてその子たちはそれぞれ勝手に善の道と悪の道を選んで進んでいったと考えました。兄弟ですから対等に闘争し、善の神が容易に勝つというふうには考えられません。それが現実を直視して得られた彼の解釈だったのです。 この彼の二元論の思想は、後にギリシア哲学に深い影響を与えました。プラトンはゾロアスター教について深い知識をもっていたといわれます。ゾロアスター教の秘儀に通じた人をマゴスとギリシア語で呼んでいましたが、プラトンを始め立派な学者がマゴスにいました。他方マゴスには別の悪い意味が生まれてきました。魔術的なことをして悪をする者という意味です。それで、うっかりマゴスというと、悪者のいみにとられかねないので、用心が必要でした。そして、善と悪は外部現象として存在するのみでなく、人間の心の奥底にも善と悪が潜んでいるという近代的哲学の中に、ゾロアスター教の思想が伝わっています。キリスト教を批判したニーチェのような19世紀哲学者はこの思想の影響を深く受けています。人間の心には、明るい理智的なアポロ型と暗い、衝動的悪的なディオニュソス型(英語でバッカスという酒神のことでギリシアの酒の神)の二元論で説明したのも独創家ニーチェに始まります。私達は自分の心の中には、キレイ事で済まない、ドロドロした悪とも何ともいえない不気味な衝動に馳られる激情が内在していることを否定できないでしょう。ニーチェに指摘されるまでもなく、ゾロアスターは三千年前に人間を深く洞察していたのです。   2.悪ははびこったままでいいのかー応報思想  この世の善と悪は、ではいつまでも戦い続け悪は滅びないのでしょうか。あの悪党めがのうのうと罰を受けずうまくやっている、その子孫も栄えている。他方に、善良な小市民的なつつましい暮らしをしていた人が天災や犯罪で苦しめられている、救いも一向にこない、正義はどこへ行ったのかと思うことも多い。これはどうもおかしい、正義は滅びたのか、神はいないのかと叫びたくなるのが人情です。人間はもともと心に正義感が備わっていて、不正義を許したくない気持ちがあります。これは本能です。ですから不正義に反対して政治連動や革命が起きるのです。マスコミでも異様なほど不正や不義を報道しタタキます。それは大衆の心の中にそれに共鳴する感情があるからでしょう。(この正義感は他人の悪には滅法厳しいが、自己の欲望の実現という場合はエゴに曇らされて全く機能しません。常に人は、自分は正しいと弁明し、言い釈を創り出します。しかし、これは正義感というものがなくなったのではなく、自己の行為には霧か色をつけて正義の行為に化かそうとしているのです。だから人間という生物は不正義を是認しているのではありません。  ゾロアスターは偉大な宗教家です。大衆は宗教のカでこの世の苦や悪に対し報復を求め自身の救済を願っていることを知ってました。そこで、窮極には悪は善に倒され滅びると彼は説きました。その時期はそう簡単に訪れませんが、いつかこの世は滅亡するが、その時に悪は滅亡すると説きました。そしてその滅亡の時に、個人個人の所業の結果も厳しく審判され、天国行きと地獄行きに人々は分けられると説いたのです。この説明で、人々は納得できるのです。 3.最後の審判はあるのか―特異な思想  最後の審判という思想をはっきりもっている宗教はユダヤ教、それと同系のキリスト教とイスラム教です。この世に終末があり、その最後のときに神の裁きが行われます。死者も呼び戻され生きてる者も、またすべて神の前で最後の審判を受けなければなりません。善行をより多く積んだ者は天使に導かれて美しい天国へ案内されます。悪行をより多く積んだ者は却火もえる地獄に堕され永遠の責苦を受けることになります。ダンテの神曲では、天国と地獄の間に煉獄があるといってますから来世は三種ほどの世界があることになります。どんな恐ろしい又いゝ世界か神曲をお読み下さい。  ゾロアスター教もこのユダヤ人の思想をとり入れてます。多分今から数千年前の古代アーリア人の間にすでにユダヤ人の一神教と最後の審判の思想が入りこんでいたのでしょう。  なぜ古代人は終末観と最後の審判の思想をもったのでしょうか。それは、人間のもつ正義感と救済への願望からだと思います。悪人が罰を受けず楽をして生きている、その反面善人でも悪に痛めつけられ苦しんでいる、そうした現実が死後もいつまでも続くということは、気持ちの上で許せないのです。その報い、因果応報があるべきだと人々は考え、また願います。その心を宗教家はくみとらなければなりません。こうした思考の上に、悪因悪果、善因善果という因果応報思想が生まれました。そして人の死んだとき、あるいはこの世の終末のときに、審判という形で人の生前の所業に対し決着がつけられるのです。 「最後の審判」の考えをとらない宗教はたくさんあります。むしろ、とらない宗教が大部分でユダヤ教などは少数派だとみた方がいいでしょう。仏教も中国の道教もヒンドゥー教もこの考えはもっていません。ちょっと似たような考えに、「地獄と極楽」の思想があります。これは仏教でいう「因果応報」の思想の便宜的な説明とみた方がよいと思います。悪事を積んだ者は悪の報いを受け、地獄の責苦を受けるし、善行を積んだ者は善の報いを受け、極楽(天国)に安住できると考えます。ただしその審判は、この世の終末、最後ではなく、個々人の死んだときに、エンマ王により裁かれて、極楽行きと地獄行きにふり分けられるという考えです。この絵画的な、情緒的な説明はなかなか合理的で人を納得させるものではありませんか。 4.宗教にも運・不運がある  ゾロアスター教はその実体が余り知られていないため、いい宗教なのか怪しい宗教なのかということすら判断できない人が多いでしょう。  今回私は縁あって少し勉強してみてわかったことですが、歴史上数ある宗教の中でも、ゾロアスター教は近代思想の上から吟味してもそれに堪えうる優れた思想と実践徳目を備えていると思います。  それにもかかわらず、かつてはオリエントの大帝国ペルシアの国教として勢力をもっていたのに、今や全世界でも十万人そこそこの信者数しかない、消滅しかけているような宗教となったのはどうしてでしょうか。教義の内容もすぐれているし日常の戒律的なこともさほど突飛なことが要求されているようには見えないのにどうなってしまったのでしょうか。  結局不運だったのです。イスラム教のアラブ人にペルシア(今のイラン)が征服され、住民全部が徹底したイスラム教にもとずく生活を強制されそれが永年続いて慣らされてしまったからです。アラブ人の7世紀に始まる大征服運動は、よく言われたように、右手に剣を、左手にコーランをもって改宗を迫る大宗教戦争でもありました。その占領から21世紀の現在までイスラム教国となったイランでは、ゾロアスター教の復活する余地はなかったのです。  似たような不運は、インドの仏教の場合にもみられるす。仏教が中心国家の国教となって長らく栄えていたインドで、どうして滅亡してしまったのでしょうか。釈迦誕生のインドだというのに今や完全にヒンドゥー教にとって代わられ、イスラム台頭後はインドの半分位の地域(今のインド西部パキススタンとインド東部のバングラディシュ)がイスラム教徒の国となってしまいました。滅亡の原因はいろいら言われていますが、一つは外部的要因、他は内在的要因です。この外部的要因というのが、13世紀のイスラムによるヴィクラマシラー寺院の焼打ちと僧侶の虐殺がきっかけで、徹底したイスラム教徒による武力攻撃です。それ以後仏教寺院はインドからほとんど消えてしまいました。皆様は、中国奥地やインドの寺院跡を見学されたとき、首を打ち落とされた仏像や、頭が幸い残っていても鼻を削がれた仏像をご覧になるでしょう。これは偶像を嫌うイスラム教徒が破壊したためです。鼻は生命ですからそれを断って息の根をとめたから、まあ頭をちょんぎるのは勘弁してやろうという程度の考えです。恐ろしいことです。  こういうふうに、ある宗教が滅亡し衰退する例をみると、この地上で、ある宗教が発展しているかどうかは、運がいいか不幸なめぐり合わせに遭わなかったかどうか、だといえそうです。中南米、インカの国で土着信仰が破壊され、キリスト教がスペインの征服者により強制されたことは、中南米の人々にとって不運なことでした。更にいえば、西欧社会がユダヤ生まれのキリスト教に支配され、中世の暗黒時代を迎えたのもローマ帝国がキリスト教を国教としたため、キリスト教が幸運にも勢力を伸ばし、世俗を支配するという行き過ぎた結果によるものです。そのため、西欧の土着宗教は、ギリシア・ローマの神をを始め、ケルト族の神、ゲルマンの森の神、北欧神話の神など皆キリスト教に駆逐されてしまったのです。それらの神とそれを信仰していた人々は不運だったというより他はありません。日本の八百万の神々は、仏教が日本へ入り国教的地位を得た後も、仏教の寛容さの故にうまく共存し、神仏習合の思想まで生まれ、仲良く今までやってこられたというのは、日本の宗教界にとって幸運だったといえます。  このように、この世の中では、その宗教がどんなに秀れていても政治的力関係で滅び衰退することがあることを知らされます。 5.仏教との類似―八正道と三業  私たちになじみの仏教では、四諦八正道という根本的な実践徳目があります。怪しげな神に頼らず、心の悟りをめざすという合理的な仏教では、八つの悟りへの修業の道を説きます。(1)正見、(2)正思惟、(3)正語、(4)正業、(5)正命、(6)正精進、(7)正念、(8)正定、をいいます。  さて、ゾロアスター教では三つの日常実践すべき徳目、三業がありますが、(1)善思<正しい思い>、(2)善語<正しい言葉>、(3)善行<正しい行為>、です。この三業は、現代の私たちがもっている倫理的に生きていく上での道徳律と同じものです。この三つは、上述の仏教の八正道とほぼ重なる、同じようなものです。(8)の正定は、正しい瞑想という解脱への技術的な修業法(坐禅)で少し性質が異なるだけで、他の7つはゾロアスターの3つの教えに重ないます。これはどう考えるべきでしょうか。偶然にお釈伽さんが同じ思索に到達したのでしょうか。ゾロアスターは釈迦より約100年位前の人です。彼の思想がインドに入って影響したと思われますし、別の考えも可能です。もともとこの両者はアーリア人でイラン・インド系で先祖は共通ですから同じ精神土壌、宗教観をもっていたとも考えられるのです。  ゾロアスターにせよ釈迦にせよ、特権階層が支配し利益をむさぼる腐敗堕落した社会に対し氏衆の不満に応えて社会革新を主張しました。彼らは同じ一つの革命家でした。その教えとなったのではないでしょうか。 6.プロテスタンチズムとの類以―「天職」と日常職務  ゾロアスター教の教義の箇所で、信者となる者の日常の心構えを説明しました。義とされる者は、当時の生活形態だった定着農牧生活を真面目に送り、教祖の示す善思、善言、善行の教えを守るべく献身精進する者です。不義とされる者は、悪徳商業、掠奪経済に従うことであり、神への特殊ないかがわしい儀式を行う者です。  これは、孔子の教える儒教の徳目にも合致する、人類普遍の道徳律に沿うものです。それで思い出したのですが、キリスト教の新教、つまりプロテスタントの教えがこれまた類似しているのではないかということです。キリスト教の信者でもプロテスタントは、日常生活を聖書の教えに従って、つつましく真面目に送ることが大切なことで、特別の戒律とが寄附をするとか、通常人に守れないことはしないでよいという教えです。自己の職業は親代々の職業、それを継いでそれを「天職」と心得て精進することが大切だと説きます。天職とはcallingと英語でいいますが、天の神に召された仕事(神の呼ぶ声call)というところからきています。今与えられている世俗的職業を大切にし一所懸命に励むことが神の意に叶うことであり、義とされると考えるのです。中世以来欧州では何となく労働は卑しいこととみられてきました。しかし日常の労働こそ意義のあることと積極的に日常職務を評価する気運が大衆の間に生まれることになったのです。そして金もうけだけをめざすのでなく、真面目に働いて蓄えられた利益は正当なものであり、合理的に事業経営に活用してよいと考えられるようになりました。資本主義は近代ヨーロッパでこうして是認され発展するようになったのです。  この理論はドイツの宗教社会学者マックス・ウェーバーにより主張され、今は広く支持されています。彼は、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」という有名な著作でそれを述べ、信者が真面目に、禁欲的勤勉さをもって働らくことが神によって義とされると説いたのです。 さて、私がこんなことを述べたのは、マックス・ウェーバーの所説が、ゾロアスター教の教えで日常業務が大切だといっていることと同じだということに気付いたからです。ゾロアスターも、信者が毎日のまっとうな仕事を天職と心得て真面目に精進することの大切さを人々に訴え、その実践者は神によって義の人とされるといっています。この秀れた近代の学者がキリスト教に内在するこの天職論を発見した時より3千年前に、すでにゾロアスターは同じことを説いていたのです。彼の思想の普遍性と革新性が見られるではありませんか。 7.教団の内部は謎―拝火教は奇怪な教えか  これまで述べてきたことは、ゾロアスター教の教義と若干の儀式(拝火と鳥葬)を念頭においてのことです。実際に教団の内部の戒律、規制や信者の日常生活の詳しい情報にもとずくものではありません。  どの宗教団体でも、理念や思想だけのキレイ事だけでは済まないのが真実で、表向きの会費の他に寄付金などの負担、入会、退会の制限や自由の問題、洗礼や割礼の問題、出生・婚姻・死亡の人生大行事の儀礼の問題など細々とした、中には不合理な習慣や決め事があるのが普通です。(正直いって、こういうことが厭で信仰団体に入らないという人、また脱会する人も多い。この脱会もなかなか自由にできないことが多い。ヤクザの世界やある相撲部屋もそうですが、退会をさせまいと妨害し脅迫する団体も少なくありません。かつて脱会希望者をリンチにかけ死亡させたオーム真理教がその例。)  ところが、ゾロアスター教の教団内部や信者の暮らし振りについては、極めて閉鎖的集団のため(多分、イスラムの圧迫からの自衛手段としてそうなった)、外部の人には容易にわからないようです。日本の隠れキリシタンもそうでした。  拝火教といわれるようにゾロアスター教の拝火儀式は、何か奇抜な儀式に思われそうですが、さほど奇抜でも不可思議でもないようです。我国に空海がもたらした真言密教の秘儀とやらで、今も護摩(ゴマ)を焚いて祈るのは我国でありふれてますが、このゴマは古代アーリア民族の拝火教の儀式がインドの仏教を経由して日本に伝わったものです。ゴマはサンスクリット語ホーマに由来してます。また鳥葬も、死体は不浄と考えられるから崇められるべき土がケガレルといけないという考えにもとずいた習俗ですから、それなりの合理性があります。世界各地で鳥葬、風葬が存在していますから、とくに奇怪なものと考える必要はなさそうです。 それだからこそ、ペルシア大帝国の国教として採用されたのでしょう。我国で徳川家康が儒教を国教扱いしたのと同じような狙いがあったのでしょう。  このように末解明の分野が沢山ありますが、わかっている範囲で判断して、全体としてゾロアスター教は現代でも堪えうるすぐれた教義をもつ第一級の宗教(民族宗教というより世界宗教的性格をもつ)だというのが私の感想です。

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