生物進化の謎を解く
─人類の進化までを含めて解説─
 
猪 貴義
 
まえがき
 
生物進化は人類にとって永遠の謎とされている。その最大の理由は、今から30数億年前にこの地球上に生命が誕生してから、現在の人類に至るまでの過程が未だ十分にわかっていないからである。
生物進化を論ずる上でもっとも重要な証拠資料は化石であるが、化石は容易に入手できるわけではないし、完全な形で出土してくるわけではない。どうしても、少ない証拠資料から進化の事実を推論しなければならないという困難性がある。
また、生物進化は生物学の原点とみられ、生物学を構成するすべての分野(分類、遺伝、発生・分化、形態、生理、生態、生化学、行動・心理など)から解明が進められてきた。とくに、1960年代の後半から遺伝子の本体であるDNAやゲノムなど分子レベルから進化の道筋をたどろうとする分子進化学が新たに登場し、将来にむけて多くの期待が寄せられている。しかし、生物進化については、今日においても、なお、多くの不明の部分を残し、その全貌は依然として明らかにされていない。
生物進化については、古くからこの分野の専門家だけでなく、一般の多くの人たちからも興味と関心をもって迎えられてきた。生物学を専攻する人たちのなかでは、進化論は仮説としては成立しても、絶対的真理にはなり得ないとみて、進化論に近づくことを意識的に避けてきた時代もあった。しかし、今や多くの生物学者は、生物進化の過程を解明することによって、生物学上の基本となる生物の存在様式や発展様式を知ることができ、そのことが、「生命とは何か」を問う生命科学の発展につながるとみている。
また、一般の多くの人たちにとっては、生物進化は「人間はどこからきて、どこに向かって行こうとしているのか」という人間によって発せられた永遠の疑問にせまるもので、それは時として、科学の枠を越えて、思想、哲学、宗教とも広くかかわり、人間が本来もっている想像力を刺激してやまない分野でもある。
ここ数年来、進化論ブームといわれる時代を迎え、有名書店においては進化論コーナーが特設されるようになった。このことは、いかに多くの人たちがこの分野に興味と関心をもっているかを示すものであろう。しかし、これまで出版されている内外の多数の著書のうちには、あまりにも専門にかたより、一般の読者や学生にとっては、むずかしく、理解しにくいものもあり、かねてから、生物進化の全般にわたり、わかりやすく解説された著書の刊行が待望されてきた。本書はこのような出版の趣旨に沿ってまとめられたものである。
本書の内容は、第1章「生物の多様性」に始まり、第2章「生物進化の事実を推論する」、第3章「進化史における生物の変遷」、第4章「進化論・進化学説の発達史」、第5章「残された主要な問題」へと進み、一般読者や学生にも生物進化の全体像が容易に理解できるようにまとめられている。
本書では、DNAやゲノム研究のように、たえず新しいものに変化してゆく最先端の知識だけを追いかけても、生物進化の全体像をとらえることはできないとみて、むしろ生物進化の歴史を通して問題を明らかにし、将来にむけて発展の方向を探ってみようとする立場をとった。「進化史における生物の変遷」からは生物進化の経過を、また、「進化論・進化学説の発達史」からは、それぞれの学説の歴史的発展過程と進化に対する見方や考え方の違いを明らかにした。
進化論・進化学説では、近年、あまり立ち入って論ずることの少なかったラマルクとダーウィンの進化論をとりあげ、かなりの頁数を割いて解説した。ついで、メンデルとメンデルの流れにある進化学説や1960年代に入って新たに登場してきた分子進化学にもふれ、それぞれの学説の違いと、依然として論争の続いている進化上の主要な問題について整理した。
また、本書においては、分子レベルだけでなく、細胞、組織、器官、個体、個体群、種など、それぞれ異なるレベルから展開されてきた進化論・進化学説にもふれた。
生物レベルについては、個体レベル以下を細分化して、生命現象を解折しようとする分析的視点がある。このような見方は、細胞レベル、分子レベル、さらに、レベルを下降してゆけば本質的なものにゆきあたるとする考え方である。それぞれのレベルに応じた法則性のちがいを具体的に追及することはきわめて大切なことであるが、しかし、このような分析的視点からだけでは生物進化の全貌をとらえることはできない。
また、分析的視点の対極として、個体・個体群・種レベルがもつ、より高次の生命機構や機能を総合的にとらえて解析しようとする総合的視点がある。進化の過程において、それぞれの時代の環境に適応し、直接、自然選択の対象となったのは個体・個体群・種であることを考えると、生物進化にとって、このような総合的視点はきわめて重要な視点となる。
さらに、生物進化にとって最も重要な視点は、30数億年をかけて、生命が連続し、進化をとげてきたとみる生命史的視点である。
読者は、生物進化の全体像を考える場合、上記したような異なるレベルや異なる視点のあることを、あらかじめ知っておいたほうがよい。
本書を書くきっかけになったのは、いくつかの理由がある。第一に、筆者自身が動物遺伝育種学を専攻した者として、若い時代から生物の進化機構に関心をもち、いつか自分自身の考えをまとめてみようという願いを抱いてきた。
第二には、筆者が岡山大学に在職中、当時の教養部において、10学部(医・歯・薬・農・理・工・教育・法・文・経)の学生を対象として開講された総合科目「生物の進化を考える」の講義を分担し、若い人たちがこの分野に対して高い関心のあることをあらためて認識したことであった。
第三には、大学を定年後、再びダーウィンの『種の起源』を通読してみると、今から150年近く経った今日においても、その内容の新鮮さにあらためて驚きを感じ、長年にわたって蓄積してきた自分自身の考えをまとめることを思いたった。
第四には、生物進化に関心をもちながらも、その内容があまりにもむずかしく、よく理解できないと考えている読者が意外に多いことを知り、この人たちになにか役に立つことができればと考えるようになった。
本書をまとめるにあたっては、いろいろな方たちにお世話になった。大学時代の恩師西田周作先生には、動・植物の育種と進化理論について直接指導を受ける機会にめぐまれた。岡山大学名誉教授の渡辺宗孝先生(生物学)には、当時の教養部において初めて開講された「生物の進化を考える」講義に誘っていただいた。また、元神戸大学教授の後藤信男先生(動物遺伝育種学)と東北大学名誉教授の山岸敏宏先生(動物遺伝育種学)には、それぞれ専門の立場から有益なご批判やご意見を伺うことができた。
その他、ここに一人一人の名前をあげることができないが、多数の先輩、同僚、後進の方々から有益なご助言、ご協力、はげましをいただいた。(株)アドスリーの横田節子社長には、出版不況といわれる時代にもかかわらず、本書の出版を決断していただき、同社の横田明彦氏には編集の全般にわたりご尽力いただいた。
もし、これら関係者のご協力やご支援がなければ、本書を世に出すことはおそらくできなかったように思う。この機会に、これら多くの関係者の方々に心より感謝し、お礼を申しあげたい。
本書が生物進化に関心をもつ一般読者や学生にとって、わずかでも参考となることがあれば、また、本書が大学教育の専門課程につながる副読本として役立つことができれば、筆者にとって、これにすぎるよろこびはない。
 
2004年3月
猪 貴義
 

株式会社アドスリー